<DIV ALIGN=CENTER><!--#geoguide--></DIV> 哲学的戯言 1〜5

 とりあえず前に進んどけ。。 


始めにもってくる内容ってのは迷うね。
何か特別な感じがしちゃって・・・

迷った挙げ句、初っ端は「前に進む」って事について。
・・生きていく上で何をするにしても、これだけは忘れちゃいけないと思う。

20代位までは結構楽に(意識しなくても)できるんじゃないかな。
問題はその後。
30過ぎからは家庭を持ったりして、なおさら保身に走りたくなると思う。
俺自身20代だからまだ分からないけど、普通に生きてたらやっぱり保身に走ると思うよ。
・・・でも、それじゃ物事進まないからね。

俺も生きていく上で迷うこともあるし、臆病になってる部分とかも結構ある。
そんなものは当然誰でも持ってる物なんだけど、どれが最良の道かなんて悩んでいても答えは出にくいよ。
悩んでいる内にチャンスはどっかへサヨナラだよ。
だから取り敢えず手を出してみる。
・・これでいいと思う。

もちろん、全く無知な状態で飛び込むって意味じゃないよ。
悩んでる対象をよく見つめる。そして、できるだけ情報を集める。
それらを客観的に見た上で、ためらわずに進むんだ。

ポイントはここ。ためらわないって事。
方向が違ってもいいんだよ。
もっと言うと、多少他人に迷惑がかかっても構わないんだ。(もちろん程度によるけどね)
他人に迷惑を全くかけずに生きる事は不可能だよ。
むしろ、それを「生きてる」とは言わないさ。

話を元に戻すけど、ためらわずに進むってのは勇気がいる事なんだ。
進んで初めて道を間違えた事に気づくかもしれない。
・・でも、進まなきゃ正しい道も分からないさ。
道が違ったら、また正しい道を探しゃーいいじゃん。
間違った道に意外と素敵な物が落ちてるかもよ。

・・・なーんて言ってる俺も、よっぽど意識しないと保身に走りたくなっちゃうのよ。
分かれ道の前で考え込んじゃうの。
だから、これを読んでくれてる皆に言うと同時に、自分自身に言い聞かせてるんだね。
これが本心かな・・・?



 「絶対」という言葉は「多分」無い。 


クレタ人を題材にした逆説って知ってるかな?
<「クレタ人は嘘をつく」と言ったクレタ人>って奴。
逆説的な言葉なんだけど・・・「タイムマシンに乗って自分の母親を殺すとどうなるか?」ってのと同じようなもの。
これから言う事も結構逆説的な話かも。。
ホントは<「絶対」という言葉は「絶対」無い>って言いたいんだけど・・めちゃめちゃ矛盾になっちゃうんで、ちょっと弱気に<「絶対」という言葉は『多分』無い>って言っちゃう。。

逆説になってるっていうのが本編じゃないから、ここであまり詳しくは言わないけどね。

こっからが本文。(前振りが長いのって、まるで某親友みたいだね(笑)。)
つまり、絶対のものってのはありえないって思っているって事。
・・・良くも悪くもね。
どんなに完璧に見えるものでも汚い一面はあるし、逆に全て汚いものってのも無い。
どんなに可愛い,格好いい人でも家でもずっと格好いい訳じゃないし、どんな優しい人でも、その人がどんな時も優しいとは限らないよ。

だからって俺が世の中に対して悲観的になっている訳じゃないよ(笑)。
「世の中に絶対という言葉は、良くも悪くも多分無い。けれど、それを踏まえた上で好きなものは好きだし、信じれるものはとことん信じる。」
これが持論だね。
「絶対こーだぁ!」って思っちゃうと、とたんに視野が狭くなっちゃうんだ。
第一印象で思い込んだ事ってのが一番危険なんだよ。
良い意味で自分を疑う事を知っている人は大丈夫なんだけどね。
やっぱり、自分を絶対的に信じちゃう人が危ない。
物事を正確に、客観的に把握できなくなっちゃうからね。
しかも、それを人間関係でやっちゃうとエライ事になる。。

少なくとも、人に対しては「絶対」って概念を持たないで欲しいな。。
どんな人にも欠点はあるし、どんな人にも良い所はある。
「どれだけその人の良い所を認めるか、どれだけその人の悪い(汚い)所を許せるか。」
それらを意識するかしないかだけでも人間関係って変わるよ。

まーそうは言っても、これも難しい事だね。
これだけはどーしても許せない!って事は誰でもあるしね。
・・・・で、堂々巡りになっちゃうけど、その「どーしても許せない!」って事にも二面性があるからね(笑)。
裏から見た事実と、表面的な事実が混在しているって事。
ま、今回は「絶対って事が多分無い」って話なんで二面性の話は次回以降へ回す事にしやす。
・・あんまり綺麗にまとまんなかったね。(反省・・)



 枠を外す 


日々心に言い聞かせている事は沢山あるんだけど、これもその一つ。
「知識、感覚に枠をハメない。」
一つのことに集中してそれだけを極めるのも良い事なんだけど、できるだけ多くの事を吸収しようとするのも大事なんだね。
これは、ただ多くの知識が付くだけでなく、それだけ多くの価値観を自分のものにできるといった利点もあるんだ。
すると、当然一つの事に対して多面的な見方ができるようになる。
自分の表現の仕方も幾つもできてくる。
はっきり言って損は無いね。

ただ、記憶量には限界があるからねー・・・
(某ゼロみたいに「ギンッ!」ってやるだけで全てを記憶できる訳じゃないからねー。。)
まあ、でも努力する事はできるね。

コツは正反対の事をやってみる事。
芸術が好きなら、運動もする。
音楽が好きなら、美術も見る。
漫画が好きなら、小説も読む。
・・・・でね、これを一段階パワーアップさせてみるんだ。例えば・・
人が好きなら、人を嫌ってみる。
人を信頼したいなら、人を疑ってみる。
人を愛したいなら、一度孤独になってみる・・・
・・こうして内面的な事にも幅広い見方を持っていく。
そうして、知識と共に感覚の枠も取り外す。

僕らって、無意識に自分の行動に制限をつけてしまっているんだ。
「自分は○○だ」っていう思いが一番の足かせで、しかも個性が強ければ強いほど重い足かせなんだねー・・
・・・ただ、本当にこれは損だよ!
(・・・って言ってる僕が一番駄目なんだけど。。)
自分の経験から言っちゃうけど、自分のイメージってのを自分自身で決めちゃうと、極端に行動範囲が狭くなるんだねー・・・良くない事だね(反省)。

やっぱり理想は、「多くの知識や多くの感性を、選り好みせずに吸収する」・・言うは易いが行い難し。理屈で分かっても実際できるかは別問題なんだよねー・・・・やれやれだ。。



ちょっといい話


今回はちょっと趣向を変えて・・・ 今、友人のhideから 「ゼロ」という漫画(もどき)を借りて読んでいるんですけどね、この中にちょいと良い話があったのでご紹介。。

時はヒットラーの時代のドイツ。
悲惨な戦時状況下、14〜23歳位の若者がナチの権威に反抗する為に団結し「エーデルヴァイス海賊団」という組織を創りました。
そして彼らは仲間である証の為にエーデルヴァイスの花を胸に付けていたそうです。
このエーデルヴァイス・・・なぜ、エーデルヴァイスなのか?という話なのですが・・・
いくつか説があり、
・エーデルヴァイスが伝統的に「自由のシンボル」と見られてきたからという説。
・エーデルヴァイスがライオンの足の裏に似ている事から「アルプスの獅子の足」と呼ばれ、その力強さを反抗のシンボルとした説。
・エーデルヴァイスの花言葉が「毅然とした勇気」そして「純潔と不死」という所からきた説。
・・・などなどがあるのですが、ゼロによると・・・・(抜粋)

少年達はエーデルヴァイスという名に自分達の魂を込めたのだ。
エーデルヴァイス海賊団が付けていたエーデルヴァイスは、ユングフラウでしか咲かない花弁のエーデルヴァイスだ。
そのエーデルヴァイスの最大の特徴は、手折ってもいつまでも変色する事なく美しいままだという点だ。
つまりあの花は不凋花(ふちょうか)だ。
一度死んだように見えても決して死なない。
ナチの手により自由は死んだ。だが我々の手により再び自由は開花するーーッ。
そんな思いを込めエーデルヴァイス海賊団と名付けられたのだ。


「一度死んだように見えても決して死なない。」・・・素晴らしいですね。
小学校の音楽の時間で有名な(?)エーデルヴァイスがこんな深い意味があったとはね。
ちょっと感動でした。。



 一生懸命は最低限だ 


今回の話は厳しいですよ。
(とは言っても、勝負事に手を出している人にとっては基本中の基本だけどね。)
これを読んで「そんな事言うなよ!」って思う人もいるかもしれない。
ま、それはそれ。一つの価値観として読んで欲しいな。

「一生懸命は最低限だ。」
これは、俺が中学時代にバスケ部の顧問の先生から言われた言葉。
もっとも俺一人に言うって訳じゃなくて、部全体に言ってたんだけどね。
一生懸命なんてのは誰でもやる事、つまりスタートラインなんだって事。
それ以上の事をいかにやるかが問題なんだな。

あまり運動神経の良くない俺は、中学当時バスケ部にいながら「一生懸命やっている」って事だけが誇りだったんだ。
ま、実際は誇りなんて大層なものじゃなくて「一生懸命やっている」って思う事で自分自身を納得させていたに過ぎないんだけどね。
・・でね、そんな風に考えている時に「一生懸命は最低限だ。」なんて言われちゃったもんだから、ホーント頭にきてね、
「お前はそうやって体が動くから、そういう言い方すんだろ!糞野郎!!」って思った。
本当に、すんごい悔しかったのさ。。

でもね、家に帰った後とかで冷静に考えてみると、別に不条理すぎるって訳でもない事に気付いたんだ。
そもそも「一生懸命」の基準は誰が決めるの?・・ってね(笑)。

それに、社会に出れば(賭場ほどシビアじゃないにしろ)多かれ少なかれ結果を求められるでしょ?
例えば、就職先で仕事を達成できなかった時に、
「でも、一生懸命やったんです!」とか言っても、
「はいはい。君、明日から来なくていいよ。」って言われて終わりでしょ?
(・・・まあ、ちょっと極論だけどね。)
「一生懸命」って、すごい良い言葉に聞こえるけど、その実、大した言葉じゃないのよ。
つーか、ある程度の所に行けば誰でもやっている事なの。
つまり、常識。当たり前の事なの。
・・・厳しいでしょ?(笑)
もっと言っちゃうよ。「一生懸命」ってのは自分の精神を守る為の緩衝材なんだよ。
「一生懸命やった」って言う事で、自分で失敗への口実をあらかじめ作っているのさ。で、そんな事言う人ってのは、少なくとも本当の意味で「真剣」にはなってないと思うよ。
本人はそう思ってないにしろ、所詮見せかけの働き、パフォーマンスのレベルにすぎないんだよ。

・・・でもね、だからと言って「一生懸命」が不必要って訳じゃないよね。
物事には色々と苦労があるしさ、人生で目の前の事だけに集中するってわけにはいかないからね。
その範囲内で自分のできる事をやろうとするって心意気は立派だよ。
・・・立派だけどさ(笑)・・・・・でも、そんな苦労はみんなしている事なんだよ。
自分だけが不幸のヒーロー(ヒロイン)だと思っちゃーいけない。
「○○さん、こんな厳しい状況なのに良く頑張ったねー!」
・・って言葉を最初から期待するってぇのは、いかがなもんだろ?

まあ、中学当時にここまで深く考えたわけじゃないけど、今になっても考えは変わらないね。
けど、俺も生意気な事言ってる割に小心者だからね(笑)、苦しくなってくると「俺、頑張った。」とか思って、断念しちゃう事も結構あるのね。
だから、せめて(ギャグで言う以外は)口に出さない様にしているの。
苦しくても「こんな所が俺の精一杯じゃねえぞ!」って強く思う。

まあ、(当然だけど)こういう土俵際の粘りは、すぐに効果の出るものじゃあない。
だけど、意識してると結構「力」になると思うよ。少なくとも損はない(笑)。

「世の中、いかに火事場のクソ力を発揮するかがポイント。
一生懸命なんてのは最低レベルの話しさ!」


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