<DIV ALIGN=CENTER><!--#geoguide--></DIV> 哲学的戯言 6〜10

 頭いいね・・? 


微妙な言葉のニュアンスの違いだけど、決して同じ言葉じゃない。
そんな言葉がいくつかあると思う。
「頭いい」と「勉強ができる」って同じ言葉?
大半の人はNOと答えるんじゃないかな。ただ、「じゃあ、どこが違うの?」って聞かれたら?

ここから言う事は僕の中ではしっかり整理できているんだけど、一般論じゃないからね。でも、「なるほど」って思ってくれたら嬉しいかな。

「勉強ができる」ってのは、そのままだよね。
学校の成績や、テストという数字を通して出てくるから。まあ、最も、最近の学校の成績には教師への態度なんてのも含まれるみたいだけどね(皮肉だよ)。
それはさておき、「勉強ができる=テストの点数」と言っても、ほぼ間違い無いんじゃないかな。

そして、「頭いい」。
人によって受ける印象が違うんだろうけど、俺は「ソウゾウリョクのある人間」だと思っている。
ここで言う「ソウゾウリョク」ってのは「想像力」でもあり「創造力」でもあるんだ。
もっと分かり易くしよう。
つまり「ソウゾウリョク」ってーのは「社会へ柔軟に対応する能力」って事だね。これに長けている人間こそ頭のいい人間だと思う。

 ちょっと道草するよ。
結構前にね、「馬鹿ってぇのはソウゾウリョクの無い奴の事を言うんだよ」ってな事を言ってる人がいたんだ(誰だか忘れちゃったけど)。

例えば・・・犯罪。
殺人とかね・・相手を殺せばどうなるかを想像できないから殺しちゃうんだよ。
相手の痛み。相手の周囲の人の悲しみ、痛み。自分に返ってくる痛み。そして自分の周囲の人の悲しみ。
それらの内の幾つかでも想像する力があれば、人は殺せないでしょ?(例えそれが一時的な感情のものだとしても。)

ちょっと極端な例だったね。
例えば・・・仕事。
ある場所に、物を置かないようにって言われる。
それでも、そこに置いちゃうならば、それは物を置いた時に出てくる弊害が想像できないからなんだよ。
それは、通行の邪魔になるからかもしれない。置くところの床が脆いからかもしれない。
ま、何にせよ物事には何らかの理由があって、それを想像できない人間が馬鹿だと言われるんだな。

 んで、話を元に戻す。
そんな訳で、俺は「勉強ができる」人間はスゴイとも何とも思わないけど、「頭のいい」人間についてはスゴイと思うし、そいつからできるだけ多くのモノを盗もうとするんだ。
実際、社会に出てから役立つのは後者だしね。だからこそ、学校ではそういった事を教えるべきだと思うんだ。
基礎学問そのものを教える事も必要だけど、大切なのは自分から何かを想い、創造していく力を育てる事だと思う。

むろん、学校だけが悪いわけじゃない。
今だと、むしろ社会自体がソウゾウリョクを育てない方向に向かっているよね。(別に社会批判しようって訳じゃないけどね。)
遊びとかさぁ、最近はTVゲームを始めとした、様々な「与えられた物」を使って遊んでいるだろう?
けれど、昔(俺が生まれる以前も含めてね)は遊びも自分で考えなきゃならなかった。
 ここで、もう差ができちゃっているんだ。
自分で何かを創るって感覚は、やっぱり小さい時の方が身に付け易いよ。
しかも、楽しい方がいいよね。
俺も「勉強」として身に付けるのは嫌な感じだけど、「遊ぶ」って事で頭が良くなるなら願ったりだ。

ま、ほんときっかけは何でもいいんだ。
自分の興味ある事を中心にしてさ、それに対して「自分から」積極的にアプローチしていけば自然にソウゾウリョクは育つよ。
「頭いい」なんてのは結果論だしね。

なーんか、偉そうになっちゃった。
そんなつもりは無かったんだけどね。
俺もこんな風に言って、自分でもソウゾウリョクを育てようとしているんだけど・・・なかなか自分が納得 するまでにはいかないね。
これからも「勉強できる人間」じゃなくて「頭のいい人間」になろうと努力してこうかにゃ〜♪





 伝えたい想い 


 クラシックギターを弾いてます(唐突だけど)。
ソロも弾くし、(ギターだけの)アンサンブル形式でも弾く。。

今回は自分の音楽に対する考え方・・・・って言うと大げさかな、、要は自分の音楽で「こんな事を伝えたい!」って思っている事を書こうかな、と思います。

なんで突然こんな事を書こうと思ったかっていうと、
うやむやコラムで「生きる」ってテーマで書いたから。。
実はこの「生きる」ってのが自分の音楽に深く関わっているんだ。

もちろん、ギターを始めた当初(高校時代)から自分の音楽にテーマがあった訳じゃないけどね。
高校を卒業して今の合奏団で弾いている内に・・
「技術が低いのは(ある程度は)しょうがない。(プロじゃないし。)
 でも、何か『伝えたいもの』を音に乗せていかなければ、人を感動させるような演奏はできないし、音で人を説得する事なんて到底できない。」

・・って思い始めた。

そりゃ、曲によって曲想ってものがあるから、一方向からその伝えたい事を押し付ける訳にはいかない。
むしろ、曲想の方を優先させるべきだと思うしね。
その限られた範囲で何を伝えるか、だね。

で、俺の伝えたい事。自分の目指す音楽。

 自殺直前の人間が、たまたま俺の音楽を耳にして
 「・・・やっぱ、もう1日生きてみようかなー・・・?」って思うような演奏をしたい!


なんじゃそりゃ!? って思いました?(笑)
少し抽象的に言うと、「生命力」「生きていこうとする力」「常に前へ進んで行こうとする勇気」といった事を伝えていきたい。

 さっき言ったように、曲によってアプローチの仕方は変わるけどね。

力強いメロディーであれば、そのままメロディーに伝えたい事を乗せる事ができる。

流れるような綺麗な旋律であれば、
「こんなにも綺麗な曲があったんだ!」
って思わせる(気付かせる)事によって、聞く人の人生で何かを掴むきっかけとなって欲しい。

悲しげな旋律なら・・・聞く人の心の悲しさをメロディーに溶かしてあげたい。
そして、ひと時でも早く次への一歩を踏み出して欲しい。

そんな感じで、例えどんな曲を弾くにしても『生きる力』を根底に流し続けたい。


 自分が音楽で何かを伝えたいと思い始めたきっかけをいくつか。。
何かを伝えようとする時に、音楽ってスゴイ画期的な手段だと思うんですよ。
 なんせ、『世界共通』だからね。
世界共通言語は、間違いなく『音』であり、『音符』であると思う。
・・・って言っても、音符が読める読めないは関係ない。(つーか、あまり俺も音符読めないし(苦笑))。
 ただ、『伝えたい事』があるかどうか。
 それが大事。最重要。

音楽の発祥とも言える『民族音楽』を思い出して欲しい。
ああいった音楽は、「楽しい事(例えば婚礼とか豊作とか)があったから、楽しい音楽をやる!」とか、「悲しい事(例えば葬儀とか)があったから、悲しい音楽をする・・」とか。。
 これらの音楽って、みんな自分の感情に起因するものでしょ?
「始めに音楽ありき」じゃなくって、「始めに伝えたい事ありき」なのですよ。
楽譜や楽器ってのは飽くまでも伝える為の「手段」に過ぎないんだと思う。
だから、「伝えるものがない」ってのは「何も無い」って事。

 だから何かを伝えたい。

 長くなっちゃうけど、もう一つ。
自分は「音楽」と「芝居」って同じだと思ってます。
「楽譜」が「台本」で、「演奏者」は「役者」、んで「指揮者」は「監督」だね。
だから、楽譜通りに弾くってのは大切なんだけど、それじゃ台詞の棒読みと同じ。

 声優って仕事があるね。
声だけで演じるっていうスゴイ難しい仕事だけど、動作で演じられないって点で音楽に通じるものがある気がする。。
音楽でも、楽譜から自分の中で曲のイメージを膨らませて、音だけでなく弾く時の動作ひとつひとつでその曲を演じる。
 音を出す前から曲は始まっているんだと思う。
そして、音楽を演劇と考えるからこそ、その劇で何かを伝えていきたい・・・


 なーんて!

そんな感じでうだうだ言ってても、メッセージは明確に伝わらないもんなの。(笑)
 「うむ。この演奏は『生きる力』を伝えようとしてるな。」
なーんて、思われる事は極極々稀。

すごい自信のある演奏をしても・・・
 「なんかよく分かんなーい☆ でも感動したー♪」
って言われるのが関の山

 でもいいの。

その「よく分かんなーい☆」の為に、色々考えたり、哲学的になったり、感情的になったり、演じたりするの。
 んで、「でも感動したー♪」の一言がなにより嬉しいの。。

 でも、まだまだ全然ダメだなー・・・

自分の納得のいく音なんて、一年に一回出るか出ないか。
 そんな俺の演奏でも、どっかの誰かが感動してくれていると嬉しいなー・・・・・・・なんてね♪





 緑の伝説 


乾ききったこの世界に、生きる活力を与え続ける伝説の歌・・・・
 グリーングリーン
誰もが小さい頃歌ったこの曲であるが、その大体は1番のみ。
7番まである事を知っている人も少なければ、歌詞など知る由も無いのも無理からぬ事か。。

しかし、無邪気に歌ったアノ歌も、実は小学生が歌うには、あまりにも、あまりにも重い歌であった・・・

では、その重すぎる歌詞を紹介しよう。
(※後半、歌詞からの引用が多く出てきます。別ウィンドウで出したい方はこちら→
『グリーングリーン』

 『グリーン・グリーン』
片岡輝作詞・マックガイアー=スパークス作曲

1. ある日 パパと二人で語り合ったさ
  この世に生きる喜び そして 悲しみのことを
  グリーン グリーン 青空には 小鳥が歌い
  グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑がもえる

2. その時 パパはいったさ ぼくを胸にだき
  つらく悲しいときにも ラララ 泣くんじゃないと
  グリーン グリーン 青空には そよ風ふいて
  グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑がゆれる

3. ある朝 ぼくはめざめて そして知ったさ
  この世につらい悲しいことが あるってことを
  グリーン グリーン 青空には 雲がはしり
  グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑がさわぐ

4. あの時 パパと 約束したことを守った
  こぶしをかため 胸をはり ラララ 僕は立っていた
  グリーン グリーン まぶたには 涙あふれ
  グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑もぬれる

5. その朝 パパは出かけた 遠い旅路へ
  二度と帰ってこないと ラララ 僕にもわかった
  グリーン グリーン 青空には 虹がかかり
  グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑がはえる

6. やがて 月日が過ぎゆき 僕は知るだろう
  パパの言ってたことばの ラララ ほんとの意味を
  グリーン グリーン 青空には 太陽笑い
  グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑があざやか

7. いつか ぼくもこどもと 語り合うだろう
  この世に生きる喜び そして 悲しみのことを
  グリーン グリーン 青空には かすみたなびき
  グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑が広がる
  緑が広がる 緑が広がる 緑が広がる

・・・・・いかがであろうか・・・・?
イメージが変わった方も多いはず。

1番で暖かな父親との団欒を歌ったこの曲は、曲番を重ねる事にテンションが低下していく。
 そして最終の7番にはまだ見ぬ未来に目を向けていってる・・・
この曲の興味深い所は、前半部と後半部(サビ)とで、悲しみのピークが違っている所である。

つまり・・・・前半部で言うと、明らかに5番が悲しみのピークであると分かる。
 そう。パパが遠い旅路へ、しかも帰ってこない旅路に出てしまうのだ。
恐らくは・・・・『 死 』
生きとし生けるものは決して避ける事のできない、死というものに対して目を向ける少年。
 しかし、その5番のサビでは、虹がかかり、緑が映えている・・・
平凡な風景と対比させる事により哀しみを強調したかったのだろうか・・・・・・しかし、それは第三者から見るにはあまりにも残酷な表現法ではないだろうか。

 次にサビに目を向けてみよう。
前半部とは一転、周りの風景のみを歌っている・・・・・一点を除いて。。
4番のサビにある「まぶたには涙あふれ」。
この一行のみ、唯一サビの中で少年の姿を映しているのである。
そう。。サビの中では、明らかに4番が哀しみのピークなのである。

この前半部とのピークの差は一体何なのであろうか・・・?

それとも5番の前半部までが哀しみのピーク、といった感じなのであろうか・・・?
 謎である。

次に、少年の人物像について考えてみよう。

今、僕は便宜上「少年」という風に言ってはいるが、実は「男勝りの少女」という事も考えられる。
なぜなら、性別を特定するような言葉は『僕』という一点のみだからである。
強いて言うなら、4番の「胸をはり」と「僕は立っていた」であろうか。。
しかし、そのどちらを採るかで性別は正反対になってしまう。


 では、年齢はどうであろう?
jesterが推測するに小学校高学年から、中学校1,2年程度までと考える。
理由は・・・
1. 「この世に生きる喜び」と「悲しみ」についてオヤジと語る程度の知識を持ち合わせている。
2. パパが胸に抱ける程度の身体つきである。(オヤジがラオウとか範馬勇次郎だったら話は別)
3. 朝目覚めて突然、この世につらい事があると悟ってしまう。
・・・以上の事から、取り敢えず中学以上ではないかと予測ができる。
しかし、それ以外からも推測はできる。

 一番目立つ点。
そう。『パパ』と呼んでいる点である。

パパなんて呼び方をするのは、大目に見て小学生。
あるいは、援助●際をやっている頭空っぽのねーちゃんか、どちらかである。
後者がこの世の悲しみ等について考えるとも思えず、必然的に前者が選択される。

あとは、最後の「いつか・・・こどもと語り合うだろう」の節。
つまり、子供の事を考えるには「Too Fast」な年齢なのである。

以上の点を考慮。
誤差も多少考えると「小学校高学年から中学校1,2年程度」と推察されるのである。

 そして!

今回、私はスゴイ事に気付いてしまった!
このグリーングリーンの主人公 同定 特定してしまったのだ!

その人物とは・・・・・えなり●ずき その人だったのだーーーッ!

今、画面の前で頷いた人も数多いであろう。
これはもう、これ以上無いというほど頭の中に鮮明に現れてくる。

精神的な強さ。パパに抱かれる程度の身体つき、年齢と内面とのディスタンス・・・・
 まさに完璧である。


・・・・こうして一つの大きな謎が大きな音を立てて崩れ去った。

 しかし、謎が無くなった訳ではない。

我々が地球に住む生物の一員として、また、人として生きるという事を考える時に、必ず「グリーングリーン」という大きな存在にぶつかるであろう。

 しかし、その謎の多さに悲観する事は無い。

いつの日か全ての意味が分かる時が来るであろう。

・・・・私達がグリーングリーンを愛する限り・・・・





 同情が嫌いなんだ 


 同情が嫌いなんだ。
するのも、されるのも。

けれども、以前TVでやってた「同情するなら金をくれ!」なんていうスれた理由じゃないよ。


何か失敗した時に、同情されるくらいなら「おめぇ、そんな事もできないのかよ!」って罵倒された方がかなりマシ。
もっとも・・・・罵倒されるよりか、「頑張れ!」って激励された方が嬉しいんだけど。。
 とにかく同情だけは嫌。

理由はね。
「その人をその場に止めちゃう言葉だから。」

「可哀想だね」って言葉の大半は、本当のほんっとうの心の底から出ていない場合が多いのも理由の一つかも。
おざなりに、というか、社交辞令的に言ってるケースが多いと思う。

 でも、心の底から思う時ってのも当然あるよね。

同情が嫌いって言ってる俺でさえも、時々、「あー・・・さすがにこれは酷い・・・可哀想だなー・・・」って思って、思わず声をかけちゃいそうになる時もあるんだ。
ま、それはそれで、本当は同情してあげてもいいのかもしれないけど・・・・

 やっぱりダメだな。

同情された側としては、「同情してくれる『優しい』人がいる。落ち込んでいても大丈夫。」って思っちゃう。

 それがダメなんだ。

そこですでに、『前に進む』という選択肢が無くなっちゃっている。
同じ心配してあげるにしても、『激励』『応援』って形で声をかけてあげた方が、どんなにプラスになる事か。。

 ちょっと話がずれるんだけど・・・
何年前の事だったか、もう定かじゃないんだけど、自分がスゴイ落ち込んで、悲しくて、どうしようも無くなった時があった。
そして、少し落ち着いた時にね・・・・
 「なんで、俺、悲しい表情をするんだろう?」
・・なんて疑問が頭にふと浮かんだんだ。
とっても俺らしい疑問なんだけど、何て事思いつくんだろうね。俺は(笑)。

・・・しかも、悲しみのどん底だってのに。。


 その時に一応答えは出たんだ。
自分は「大変だね」「大丈夫?」「かわいそう」・・・ってな声をかけて欲しくて悲しげな表情をするんだなぁ、ってね。
それに気付いたら、なんか悲しい表情するのがバカらしくなってねぇ。
「自分で前に進もうとしてないじゃん!バカか俺は?」・・・・って思った。

それ以来、悲しげな表情、落ち込んだ表情ってのは他人に見せないようにした。
そーいう表情を見られると「大丈夫?」なんて心配されちゃうからね。
「気合い足んねーぞ!」とか、「頑張れよ、オイ!」って形で心配されるのは嬉しい限りなんだけどなー。

最初は「意識的して」顔に出さないようにしてたんだけど、最近は『空元気』って高等技術を取得したから(笑)
あと、『元気になった気になった』とかね。
 うやむやな元気(笑)。

あと、一人落ち込んだ人がいると、その場の空気が「同情ムード」とか「気を遣ってまっせモード」みたいになるじゃない?
 俺はそんな空気も苦手なんだ。
他人を気遣うってのが苦手ってのもあるけど(←これは反省するべき)、「自分がやられて嫌な事は、他人にもやらない」の法則に乗っ取って、同情するのも嫌だからね。


ここまで聞いて「でも、どーしたって落ち込む時はあるだろ!」って思った人もいるんじゃないかな。

 そりゃ、俺だってどよ〜んとする時はあるよ。
空元気出そうにも、「さすがにもう無理です」って言う時がある。(今までにも結構あった。)
 そん時は・・・・・・・・しょうがないから、1日だけひたすら落ち込む
できる限り何もしないで、他の人ともなるべく会わないようにして、落ち込んでいる事だけをひたすら考えて、1日中へこんでいる
・・・・んで、早く寝る

 その代わり、その翌日。
翌日からは綺麗さっぱり気持ちを切り替える!
 そして空元気満載で生きる!(笑)

誰だって、落ち込んだ人を見てるより、元気な人を見てる方が気持ちいいっしょ?

 つまりは、そーいう事!



・・・最後にね、声優の國府田マリ子さんが歌う『愛と勇気の健忘症』って曲の一部をちょっと紹介。
 結構元気の出る曲ですよ♪(アルバム「なんでだってば!?」に収録)

 なんでそんなに悲しがるの
 すんだことさ すべては
 傷ついた日のインパクトに
  魅せられてるだけさ

 ・・・・・・

 愛と勇気の健忘症
 なり方を教えましょう
 回りを見て 明日を見て
 光るカケラをみつけて
 一秒で はまればいいんだ

 ・・・・・・

 愛と勇気の健忘症
 ひとつだけ信じましょう
 忘れること それはたぶん
 乗り越えることなんだね

 愛と勇気の健忘症
 つらいコト 忘れましょう
 時間なんか必要ない
 できる全部をやれたら
 痛みは 引く波のしずく





 バランス 


世の中、やはりバランスの取れているのが一番であると思う。
「謙遜」は行き過ぎれば「消極的」になるし、「積極的」は行き過ぎれば「傲慢」と映る。
臆病と蛮勇の中庸が勇気であり、けちと浪費の中庸が気前のよさである、とはよく言い得ている。

「過ぎたるは なお及ばざるが如し」

両極端はどこかに歪みを生じるのは必定。アリストテレスがかつて言ったように、「中庸」こそが理想的であると考える。。





 大阪で痛ましい事件が起こりましたね。
いつもなら、こういう大事件が起こっても、自分の遠くで起こっている事が多いため、あまり自分の心まで深く入ることはありません。
「こりゃ、ひでぇ」って思っても、何か社交辞令的に湧いた感情みたいな気がして・・・・・今ひとつ真剣になれない。


 けれど、なぜか今回は違いました。

別に、自分の過去に何かひっかかるものがあったって訳では無いのですけど・・・(無意識的に引っ掛かったかどうかは別)
無残にも殺されてしまった8人だけでなく、それを見ていたであろう児童の感情が「ぶわーーっ!」とリアルに想像出来てしまったのです。





この事件を知って始めに思ったのは、「アメリカでなくてよかった」という事。
同じ動機、同じシチュエーションの事件が、もしアメリカで起こったなら、間違いなく銃の使用がある。そして、被害は8人では済まなかったでしょう。
でも、「不幸中の幸い」なんて言葉は相対的な言葉。
絶対的な視野に立たなければしょうがない。。





もし、その現場を見ているのが小さな子供でなく、大の大人だったら。。

衝撃的な体験である事には変わりないが、それを教訓にしたり、自分なりに心を納得させて、次の日の生活を迎えようと努力するだろう。

 けれど、今回多くの目撃者は小学校低学年次生である。

自分の心を納得させるどころか、自我さえ確立されてないに等しいのである。
そして、自分の知り合いが、友人が、刺される光景を目の当たりにする・・・・

俺が今回リアルに想像できてしまった点はこのあたりなんだと思う。
自分が小学校1年当時にそんな状況に立ったら・・・・・多分、一生まぶたに焼き付いて離れない。
そして、自分の心をどこに持っていっていいんだか分からなくなると思う。。





 また、犯人は心神衰弱状態だったという話がある。
エリートを殺せば・・云々という話しは別として、そういった動機を持つに至らせた、犯人の周囲の環境を・・・・・・・一端に、思う。。







悪循環に入ってしまった。


 そう、思う。


この事件をきっかけに、学校は部外者に対する警戒心を何らかのマニュアルで具現するであろう。
また、政府は心神喪失状態の人、障害者(と言うと差別用語になってしまうかな?)に対して、今よりも厳しい枷をハメようとするであろう。

しかし、その事によって、ますます学校内が閉ざされた空間となり、学校内で問題が起こった際に、生徒は今以上に外へ助けを求めづらくなるだろう。

その事によって、ますます障害者の「生き続けようとする」想いに対するハードルが高くなる事だろう。


それらの結果、ますます大きな歪みができ、表面上は綺麗に整いながらも、内面が相当な歪みがある・・・・そんな社会ができてくる。



 では、何もしない方がいいのか?


 当然、そんな訳はない。

だが、法が統制できる事っていうのは、残念ながら意外に少ない。
 法というのは、常にYESかNOになってしまう。
しかし、大切な事ってのは、そんな極端な場所にあるんじゃない。
自分で考えて、相手の気持ちになって、そして行動して・・・・・・・・しかし、それでも間違えてしまう。
そして、また考え直して・・・・・・・・・そんな事の繰り返しなんだ。


ピタッと、バランスのとれたベストの状態で静止していられる奴なんかいるもんか。
みんなアッチへ行ったり、コッチへ行ったりだ。





とにかく、今回の事件に対する波紋はかなり大きいと思う。


さっき言ったように、悪循環にも、また更なる規制ができるだろうし、また、政府・学校はそうせざるを得ないであろうと思う。


 社会のバランスはどんどん崩れていく。


でも、勘違いしたくないのは、自分の行動の責任を法律・社会のせいにしない事
どんな事があっても、「自分の行動に対する最終決定権は自分が持っている。」その事を忘れないでいたいと心に思う。





 最後に。

前回の「哲学的戯言」で言ったように、同情は嫌いです。
 今回の事件に対しても、「同情」はしたくない・・・
けれど、かなりリアルに想像できてしまった自分の心が、相当な衝撃を受けた事は事実です。
今後、こんな事件が2度と起こらないように、切に願います。。



追記:後日、精神安定剤を飲んだだの、何だの、という話しは犯人の演技である事が分かりました。
「彼」は自分の行動からも逃げようとしていたのです。
不幸にも事件に出くわしてしまった小学生の、人間に対する気持ちを、心配して止みません。



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